(長文ですいません)
キヨコさんは、○○県でお生まれになりました。
有名な○○温泉の近くで、そこは豊臣秀吉も湯治として利用したのよと
お話するのが私との毎回のコミュニケーションでした。
七人弟妹の長女に生まれ、幼い頃に母を亡くしたため、
長女のキヨコさんが母親代わりとなり、六人の弟妹を育てたのでした。
二〇歳で嫁ぐこととなり、生家を出たキヨコさんですが、
まもなく実家の父を病魔が襲います。脳梗塞で後遺症が残り、
実家での生活が成り立たなくなった父と弟妹たちのために嫁ぎ先に
お暇をもらい実家へと戻ったキヨコさん。
そこでキヨコさんが見た光景は、片麻痺で不自由な父親が
お米を研ぎ家事をしている姿と「おねえちゃん」と泣きすがる
弟妹たちの姿でした。この現状を見たキヨコさんは、離婚を決意し
嫁ぎ先から実家へと戻ったのでした。
その後、父を見送ってからは、六人の弟妹を女手一人で育て、
小さなお好み焼き屋を営んだキヨコさん。
そのお好み焼き屋を閉めてから、一人暮らしを送っていたキヨコさんに
北九州へ来て一緒に暮らさないかと声を掛けたのは、一番下の妹の
ヒロコさんでした。
慣れ親しんだ故郷を離れ、遠い北九州の地に来たのは
何よりかわいい妹のために何かしてあげたいという
一心だったのかもしれません。
いざ北九州へ来たものの、見知らぬ土地で見知らぬ人たちに
囲まれて過ごす環境は、キヨコさんにとって負担となったようです。
関西弁を気にして少しずつ閉じこもりがちとなったキヨコさん。
そして物忘れが目立ち出したのは、数年前のこと。
認知症の発症は、ヒロコさんとの関係を引き裂きました。
物を盗られた、財布がなくなった、お金がない、同じことを
何度も繰り返し、攻撃対象は唯一の肉親であるヒロコさんへと
向かい、姉妹の関係は悪化の一途を辿ります。
キヨコさんの威厳とプライドが崩れ落ちた瞬間だったの
かもしれません。ずっと弟妹たちの面倒を見て生きてきた
キヨコさんが妹であるヒロコさんの世話になる。
そんな自分が許せない、耐え難い思いがキヨコさんを
壊したのかもしれません。
われわれの元へ辿り着いた時のキヨコさんは疲れ果てていました。
ヒロコさんも同じで・・・
私たちはそんなキヨコさんと少しずつ距離を縮めて信頼関係と
いうものをつくることができました。
宏和苑での生活も終わりを迎えようとしていたキヨコさんのもとへ
弟妹六人が居室へと集まり、近くのお好み焼き屋さんから
出前を取り、キヨコさんの大好きだったお好み焼きを
キヨコさんが食べられない分も弟妹さんたちが食べて
ベッドサイドでのにぎやかな様子が、居室の扉越しにリビングに
響いて私たちに聞こえてきました。
その数時間後にキヨコさんは弟妹さんたちに見守られる中、
息を引き取りその生涯を閉じられました。
宏和苑は介護の仕事をするところなのですが、
それは食事・排泄・入浴といったものだけではなく、
「老い」とは?「認知症」とは?「自分」とは?
といった、それぞれの人生のエンドステージで誰もが
抱えるであろう孤独とか寂しさといったものに、
その人の人生の1ページにそっと寄り添えないだろうか?
そこに私たちの思い(ケア)が届かないだろうか、
届けられたらいいのになぁとそんな思いで日々の介護に取り組んでいます。
自立に向けて生きる人を手助けするのが我々の役割で
決して利用者様を保護対象として手助けするのが
我々が目指す介護ではありません。
それはあくまで主体的に生きる意思と努力を励ますための
介護と考えたいからです。介護の世界は、利用者様に対して
何をしてやったかというものが問われるものではなく、
利用者様と共に我々がどういう生き方をしたかが問われる世界です。
私たちと一緒に利用者様を元気にしていきませんか?
そして、利用者様だけでなくご家族様も元気にして
自分自身も元気になるそんな介護を一緒にやってみませんか?
我々一人ひとりの努力が、地域や社会から必要とされる
宏和苑を創っていきます!